社交

ざんねんな人間図鑑

右心房ラジコンカー

年とったなぁと思います。年はとったのになんにも大人になれず、ぼんやりと不安を抱えたまま、死んでいくのが怖い、そう思いながら生きていくのが怖い。駄々をこねては仕方がないでしょうと見下される。
高校生は大人になる最終段階だと、クソほどに嫌いな先生が仰っておりました。出来て当たり前、りっぱな大人の対応が出来て当たり前。人間として相手として扱ってやるのはそれから。出来ていないやつは扱うに値せず無視され、嫌われ、評価も下げられ、「お前誰?」でおしまい。大人になる最終段階ならば、わたしが死を選べる最後のステージは、ここ、なのだろう。
いつの間にか小児科にもかからなくなるほど歳を重ね、かわいらしい柄の子供服が物理的にも精神的にも着られなくなり、「明日は休み」というだけだった金曜日の存在意義がぐらつく。何とはなしにつけていたテレビ番組で、色んな家にカメラを置いてステイホームの様子を撮影するみたいなものをやっていて、ひとがまったく同じ時間、同じ天気、同じ酸素のもとで生きている実感が初めてわいた。大雨が降って、みんなが窓を閉める。雷怖いねぇ、と子供に声をかける。それだけでわたしの構築してきた価値観はガラガラと崩れ落ちていった。昔から目をつぶれば他人は全部消えてしまうと本気で思っていて、すべてはわたしの作り物の世界で、わたしがいなくなればみんな消えると思っていた。本気でそう思っていた。ピアノの綺麗なコードも、頬を照らす雷雨も、うそをつかないのだ。そこにある。わたしが作ったものじゃない。当たり前が、当たり前になった。
めんどくさいめんどくさい、ぜんぶめんどうくさい。楽しいことだけ考えていたい。世間の大部分の意見とか言うやつには耳を傾けたくない。喉の奥に棒を突っ込まれて何もかも吐いたみたい。自分の嗚咽が気持ち悪くて気持ち悪くて泣けてきた。またこの嗚咽にも似た叫び声を聞くのが怖くて吐きそうで単純にも死を選ぼうとしてしまう。だめだだめだ、と頬をぺちぺち叩いて涙も引っ込む。それでもって吐き気は引っ込まない。喉が何かせりあがってくるように痛い。一生懸命生きてるのが馬鹿らしいね。みんなみたいに友だちもいないのに、勉強も運動もできないのに、なんのために生きてるんだろうね。生きやすい方を選んでも誰にも味方してもらえなくて、夜中に一人でメソメソ泣いてるのは情けなくてみじめで醜く見えるね。醜いのかな。みんなはどうしてうまくやれるのですか。わたしはそれほどまでに軽薄で汚い人間でしたか。
連休の罪悪感を雨がぼたぼた飽和しようとするようにみえる。お前にそんな力はねぇよ、と雨に八つ当たりする。勝手に想像したくせに。雨が怒れば雷雨に変わるだろうか。いつも通りすべてがどうでもよくなって言葉を探すのをやめる。