社交

ざんねんな人間図鑑

ぜんぶわたしのためだよ。

誰も見てない、誰も何の感情も持たない文章を書くのってなんの意味があるのだろう。
ぼくはアウトプットとか言ってみるけど、正直見てもらえる言葉が書きたいし、自分のちからで誰かを救いたい。
でもどこか自分のために使っていた言葉が、いつのまにか誰かを好きになるために使われていた。友達にプレゼントをもらったからお返しをする、そういうのをこの年になってやっとできて、ずっと友達でありたいなぁって思ってる。


謎肉ってすごいいい名前だと思いません?語感、雰囲気、字面、もう何も説明しないという潔さ。味は嫌いですけど。


三年前のぼくの方が今のぼくより、色んなことに対して猶予があるってこと、ぼくはたぶん一生許せない。だからぼくは自分を嫌いになるよ。かみさまがつくった世界の理不尽を考えなくてすむように、自分の小ささ、醜さで頭を満たそう。


お風呂に入ってすぐと、上がる直前のその数分で、もう言葉なんてどっかに逃げていってしまいます。言葉には流動性がある。何の話?記憶喪失みたいな備忘録。


友達と上手におしゃべりもできないし
歩くのも走るのも書くのも遅いし
ぜんぜん勉強もできなかったけど
あの修学旅行の最後の朝に、
心のどこかで帰りたくないって願ってたこどもたちが、
苦しいことを考える時間が1秒でも少なくなりますように。


そのむかしぼくの言葉を読んでいた人たち、今はぼくのこと嫌いになったかな。どうでもよくなったかな。
あんなに大人も学校も社会も恨んで妬んで憎んでいたあの子たち、いつか幸せになってさ、幸福な結婚なんてしたりするのだろうか。そうして他人の不幸に疎くなって、しあわせなホットケーキの絵本なんか読み聞かせたりなんかして。ねぇ、あの日あんなに全てを嫌っていた"女の子たち"は、もうどこにもいない。