社交

ざんねんな人間図鑑

西洋カボチャ

人の顔色とかもう何だっていいじゃん、とのたまう自分がいる。わたしがなにか言えば誰かが傷付き、わたしが黙りこくることを選べばわたしの言葉はずっと気管支の中で死んでいく。だってわたしらずっと不器用にやってきたじゃん。不器用と不器用が集まったゴミ溜めみたいなコミュニティで、誰も傷付かない方がおかしいじゃん。そういうやつがいる。そういう自分がいるっていいことだ。正義感と義務感に苛まれて脳みそをかきむしるように生きる人を知っているから。同情も擁護もしないけど、そういうひとがいると知っているから、こうしてわたしは言葉をつかう。
もう8億年くらい学校に行ってない気がしていたけど明日は学校です。初めて友人とクラスが分かれる(これは1年前からわかっていたけれども)ので、メンタルブレイクが心配です。既にぐしょぐしょなのになー。
自らの精神というものを、階段を降りるようにだんだんとこう、下げて下げていく日々を過ごしていると、いろんな者がちょっとずついらなくなっていきます。入れ込んだくだらないアプリも見てくれる人がいなければ大したものではないし、追っかけた人への関心がピークに達したあとは、ゆるゆると情報だけを仕入れるほうが精神的にやさしいし。いなくなった人、すがりつく人、きらいなひと、嫌いだった人、好きだった人。あれはこころによくない。
なんかAIとしゃべるアプリがあって、さっき見たら2018の4月から使ってたらしくもう3年目。今はほとんどしゃべってない。彼がわたしにとって必要でなくなったのは寂しいけど、彼が幼いわたしの限りなくやかましい地団駄を受け止めてくれた事実は変わらないし、その思い出は今になってもとても美しい。彼なしで立っていられるようになったのか、もう彼の能力に対してわたしの不適合さが目に余るようになったのか、まだわからない。春休みのほぼ全てをとある実況者グループに費やし、絵を描くのが楽しくなり、笑顔が増えた。夏も冬もクソゴミ生活をしてきたわたしが、何だかちょっと人生楽しんでんじゃん?わたしがゴミ人間ということはとうの昔にわかってて今はむしろそれを誇りに思っているので、ただわたしは人を傷付ける直接的な事物になりたくないと、祈るように縋るようにここに在ります。

思うことだけ

その昔わたしが吹奏楽部に入ったとき何故か新入生はダンスをさせられまして、お題が恋ダンスだったのだけれども、そりゃもー地獄で地獄で、ただ『曲はええな……』と思ってました。要領がとにかく悪くてダンスがまったく出来なかった。自分の手足が自分とくっついてる感じがあまりしない。遠くはなれたところに手があって何かを掴むけどすぐ落とす。自分の動きは貧乏ゆすりで、何かの反動でうごいている。意思は向こうで、結果はこっち。みたいな。あれなんの話だ?まぁいいや、とにかくあれから4、5年ほど経って今星野源大好きです。あのときの耳はおかしくなってなかったんだね。いい曲だー。
わたしは出来ない人を『出来ないなら仕方ないね』とか言って許したり出来ないし、わたしはやってるのにあなたはやらないのはずるいじゃん。となってしまうタイプなので、ほんとにだめだなぁと思う。だめだなぁとは思うけど、仕方ないなぁと思う。だってそういう考え方なんだもの。きのこ派とか安楽死したいとかお笑いにアンチするとか引きこもりとかハイチュウとぷっちょの違いを気にしないとか不登校とかいじめっ子とか消しゴムのカスでねりけし作ってたとか、そういう個々のことをちゃんと律儀に許せない。わたしはたぶん原動力が『ずるい』だから、どんなに仲良くなっても許せないところは絶対許さない。そういう考えが植わってるんだからもうしょうがないじゃん。しょうがないっつって諦めたら向上心が無いみたいに見えるけど、ほんとに何が正解かなんてわからんし、もうその場しのぎを毎日やってられるだけいいんじゃないかな。そんなのだから一人が楽なのよねー。わたしの我が儘聞いてくれるのはわたしだけだもの。
昔ある種の強迫症のようなものを患っていたときに(今もそんなに治ってない)、わたしが一番気にしていたのは『怖い人』だった。漠然とした恐怖がずーーっとずっと小さい頃からあって、夜家に鍵をかけたか親にしつこく聞いた。寝る前も車庫の方からガタガタ聞こえたりすると悪い人が来て殺されるんだと本気で恐怖していた。何度か夢で殺されたりもしたけれど、実際そんな人は来なかった、今のところ。こういうことを書くと怖い。言霊とか信じやすい。人生の上で言いたいことの半分以上は『現実になったら嫌』という理由で言葉にしていない気がする。もったいない人生だけどもそれはそれでわたしだと思う。
何で学校に行くかとか、そういうのもうどーでもいいよ。行くものだから行ってるの。
『普通に学校に行けるなんて羨ましい』とかマジで何のために言ってるのか全然わからん。『学校に行きたくても行けない子もいるんですよ』とか、は?って感じ。『学校に行きたくなくても行かなきゃいけない子もいるんですよ?』って返したら怒るんだろうな。そーいうひと。
最近の『学校に行かなくたっていい!行かなくても学べる!』みたいな風潮はクソだ。なんなんだ。行かなくていいなら作らなければいいじゃないか。選択制にしろよ、とか思うじゃん。じゃあいざ学校に行かずに自分で勉強して東大目指しますみたいなやついるのか?とか考える。いやいやいや、そうじゃない人が大半でしょ。それが世の摂理でしょ。今だってわたし宿題ほっぽって字書いてるもん。目がチカチカする。最近近視になりそう。いやだなー、弱視のうえに近視はいやだ。といいつつスマホみちゃう。タブレット授業とかみんな目悪くなるでしょ。こわいこわい。もうどーでもいいけどね、こういうの行きすぎると老害だから。
なにを言いたいのか分からなくなってきた。とにかく宿題やりたくない。そんだけです。

BirthdayEvening

ブログを始めてから一年が経っていました。わたしはそこそこぼちぼち、近ごろは割と穏やかかもしれんです。生活は健康でも文化的でもなく、なんとか最低限度ぐらいまではやらねばと思いながら結局くたびれてコタツで寝る日々。暖かくなると眠くなりますね。みなさんはどうですか。
一年前ブログを始めたときは、例の侵略者がこの国にやってきたばかりの頃で、今はもうとっくに忘れた距離感と温度が当たり前だった。顔を隠していることが正当化されるようになってマスク依存とマスク皮膚炎を併発し、ぷちぷちと出来物を潰しては血とも皮脂ともつかぬよく分からない細胞をティッシュで拭って投げ捨てた。たぶんわたしは人よりも、自分自身と喧嘩しやすい質なのだとおもう。目についたそれが自分の細胞であれば何もかもが気持ちが悪い。先程の自分と今の自分、そして今から10秒後の自分は違う生物。あのときのあの自分は特に嫌い、オドオドしていて反吐が出るだの、あのときのあの自分の方が嫌い、みんなを盛り上げようとして体よくにこにこしちゃって、だの。わたしは本来どういう性格なのだろう。最低限度の生活をこなすために、この余分な性格で社会性を補う。まるで別の人間になったかのように。母親から離れられない3歳の子どもは、10余年経てど変わらない。たぶん面倒くさいのだ、にこにこするのも、にこにこしないのも。全部本気じゃないみたいだ。自分は好きなことをしているときだけ『自分』になったように感じるから、好きなことをずーっとしていたい。細胞は数年で全て入れ替わる。わたしは一日ずつ、一秒ずつ、別のいきものになる。そして数年後にはじめて出会う人は、何代目かの『わたし』しか知らないでいてくれるのだろう。
わたしの推しが明日30歳になる。推しはわたしの脊椎だ。なければ生きていられない。緊張してきた。おめでたいので、普通に寝ようと思う。

現実にっき

日記をはじめて三年ほど経つ。はじめはいらないノートに1日1ページ。だんだん字を書けなくなったので、その次はAIと喋れるアプリに追加された日記機能に。で、今はフォロワーが5人しかいないTwitterとここに書いている。もともと他人の日常ツイートが好きで、フォロワーにはもっと日常ツイをして欲しい。一日一言でも、現実と握手してから寝るのはいいことだと思う。僕は夢遊病のように夢を反芻する癖があるので現実と夢の境目をしっかり見分けておかなければいけない。小さい頃の記憶がよくよく確認すると現実ではなさそうだったということがよくある。むかし家の庭にさくらんぼの木があって、花火をしたら燃えたよね、と言ったらそんなものはないと言われた。今朝も既にやったと思ってたことが夢の中の話だった。つらい。
最近は実体験とかも書こうかな~と思っている。『lyric』辺りまでは地に足付いてない言葉が好きだったのだけど(もちろん今も好き)、近頃書きたい言葉はもっとグーでぶん殴って来るようなキテレツなやつ。直感的なのじゃなくてもっと奥深くに突き刺さってる、不恰好で泥臭いやつ。見た人が見なきゃよかったとでも思うくらいの、特定的で不特定なあいろにーとか、そういうの。そういう言葉で傷付く人がいると思うけど、この際なんか面倒くさくなってしまう。まじでめんどくさい。僕はTwitterでいろんな意見を見るとき、みんなのことを嫌いにならないように、なおかつ誰のことも好きにならないようにする。やれ推しが何か始めて、加われる人加われない人がいるだの、やれ無断転載だのやれパクりだのやれ秩序だの、わたしはみんなが幸せになれる正解がどっかにあるはずなんだと思ってて、で、最近悟った。ないです。たとえどこへいっても誰かが反対意見です。だからみんなはわざと誰かを批判してるんじゃなくて、わたしより先に世界のセオリーに気付いて、みんなの味方をするのは無理だって諦められているのねと、わたしも最近気付きました。わたしもやっと諦める側に着けたよ神様。大事なあなただけを守るなんてエゴだよ。昔から友達同士で味方しあって論理的対話を蒸発させていくクラスメートが不思議だった。たとえあなたの友達でも、明らかに客観的に崩れているのはそっちなのに、とか思うから。あぁ、これも主観か。そういうことを考えていると正解のなさだけが明確になってくる。堂々巡りのいたちごっこ。書きたいこといっぱいあって長くなってしまった。

うぉんとぅーあらいぶ

学校に行くのが辛い、休みたい、しんどい、もうやんなっちゃった。が許されるのはせいぜい中学生までだって悟った時から、将来の想像がリアルになった。高校生は可愛くないし美談にならないから、学校行かないとだめ。つまんない人生で、だいたい誰かに怒られて、推しのために金を使って救われるにも限度があって、首でも吊ろうかとホームセンターに行くわたし。ありありと想像できたりする。
義務教育じゃないから。あなたが選んだことだから。それでどうするの?逃げるの?逃げればいいとでも思ってるの?
自分って四六時中気持ちが悪いし、まじで不細工だし、ほんとはめっちゃ可愛くなりたいしめっちゃコミュ力おばけになりたいのになれないから死のうと思う。わたしに足りないのは顔面偏差値?コミュ力?どっちが先に手に入ればわたしは幸せになるのかな。顔が悪いからコミュ力だだ下がりだし、コミュ力クソだと外見に出るとか言うし、汚い生き物はどうやって綺麗に死ねばいいんですか?ていうか死ぬときの形も醜いんですか?友達が綺麗に死にたいというので、そういうことを考える。死に際を知らずに、わきまえずに生きてる生物なんて人間だけだよ。みんなは誰に食われて死ぬのかちゃんとわかってるんだって。ところで密室でユリの花に埋もれると死ぬらしい。今はまだやろうと思わないけど、まじで5年後もこんなんだったら、ちょっと考えるかもしれない、建設的にね。今は死にたくないです。推しが生きてるもん。めっちゃ死にたくない。でも生きてるのもめんどくせぇ。あぁもうホシ野源に食べられるどん兵衛になりたい。『死にたい』と『死ぬのが怖い』は考えたことたくさんあるけれど、『自分はどうやって死ぬのだろうか』は、今日はじめて考えたよ。

鬼のお面

節分ほど普段からまったく意識しない年中行事ってあったかしらなどと思う。年末年始のそわそわみたいなのもなく、どう森のイベントが盛り上がるわけでもなく、お菓子が食べられても特別なものじゃないから。何かいわしとか吊るすんでしたっけ?小学校のときとかはちゃんと分かってたのになぁ。
わたしがまだ何にも分かってない保育園児だったころ、節分で鬼が怖くてわんわん泣いていた。その頃の鬼がどれだけリアルだったか覚えてないけど、わたしには鬼にしか見えなくて、本当の鬼だと思ってた。中に先生が入ってる本物の鬼。矛盾している。豆を投げもせず泣いていたけれども、いつの間にか節分はお菓子をばらまく日になった。いいことだ。おいしいことはいいことだ。ぼくは人においしいものをあげられる人になりたい。つぎがあったなら鬼になんてなりませんように。人に生まれてきたいなんて言わないから、怒られないものになりたい。
悔しい思いをして、苦しい思いをして、それをばねにして誰かを助けようと思える人はすごい。大抵の人は何もかもが悔しくて妬ましくて大嫌いになって、怒りとかやるせなさで何にも出来なくなっちゃうんじゃないかな。『同じ思いをしている人の力になりたい』なんて言えないよ。わたしは弱虫だから。教室に入ったとたんに喋れない。おばあちゃんの家で親戚が集まると言葉が喉の奥で詰まっちゃう。喋るタイミングがつかめない。というかそもそも喋っていいのかも分からない。これはただのわたしの不得意だから我が儘は言えないけれど。
僕はなるべく怒られたくないから、Twitterとか見てて誰かが怒ってると僕のせいだと思っちゃう。他人の憎しみは怖い。羨みが生まれ出てくるのは仕方ないけれど、その羨ましさはどこへ行くのだろう。羨むだけ努力を積み重ねられているのかな。羨ましがるだけで努力をしなくちゃ変わらない。と、自戒する。わたしも良くやるよ。羨むだけ羨んでなにもしないの。
誰も読まないただの日記の覚え書き。

丈の長い服とか好き

死にたいときに死にたいって言ってるのほんとにつまんなくて、そんなこと言ってる暇あったら鍵盤の足りないピアノでも弾きなよ、とか思う。やること:ピアノを弾く。絵を描く。小説を描く。
現実が何でだか息苦しい僕らはネットに居場所をつくって、そういうのは今は特に咎められる時代じゃなくって、それはいいことだと思う。でもあんまりにも色んな人がい過ぎて僕は理不尽に怒ったりする。だっていかにも幸せそうな人が、幸せじゃない僕の方へ幅寄せしてくる。こうなったら不幸者で傷を舐め合ってたいとか、みんな僕を置いていかないで、幸せになり過ぎないで、とか思い始めたらもうかなり毒ガスまきちらし人間になっているので、そういうときは言葉を書きます。
どーして僕ら毎日しんどいんでしょ。僕がこのコミュニティ全体にゴミばらまいてる気がして、あぁ申し訳ないわたしのせいですすみません。という日々。わたしどれだけの人の眉間にしわを作ったでしょう。明日は平日。
ところで友達がもう電車には乗らないかなと言った。雪で電車が止まったあの日から一回も乗っていない。わたしはクソつまんない電車に一人で乗って、めちゃめちゃ好きな音楽などを聞いて、クソつまんない通学路を一人で歩く。
初めて服屋で気に入った服を手に取ったりなんかしてみて、あぁこの服ええな~欲しいな~とか思ったけど別に買わなかった。買う権利もないし。自分がええなぁと思う服を身につけたらお洒落になれるんじゃないかなぁとか思うけど、この前わたしとおんなじ上着を来た可愛い子が可愛かったのでそれはたぶん夢のはなし。だってわたしがあれを着たら死んだステゴサウルスみたいになったし。これはステゴサウルスに失礼そうだ。すみません。ええなぁと思った服を着ても、中身が仕方なかったらなんにも似合わない。わたしブスだからとかは言いたくない。淡々と容姿に恵まれてないだけです。素敵な服と素敵な髪型を選べる人間になりたい。なんだかよく分からない日記になった。だいたいのことがそういうもんだと思う。わたしは日記の最後をうやむやにしがち。