社交

ざんねんな人間図鑑

黄泉戸喫

ほんのりと見受けられる言葉のねちっこさ、ひねくれた尻尾、冷徹と諦観から吐き出される芥の貝殻。ぼくの言葉にそっくりな言葉、例えば目の前に投げつけられて、それが自分の言葉ではないと笑えるかな。一種のエンタメとして見られるかな。あんまりそっくりだから、ぼくを重ねて、そのままぼくが溶けてしまわないかな。読み解けば読み溶くほどに自分と目の前の言葉の境目が曖昧になってゆく。ぼくの複製を見た気分になる。評論文が人を殺した。軽率に簡単に他人の生きる糧をぐしゃぐしゃに綻ばせて崩して壊してしまう。断じてぼくは言葉を売るために生きてるんじゃない。生きる上での副産物として、言葉を切り売りしているんだと叫ぶそぶりをする。とがったことばを使ってみるのも背比べの延長じゃなくて、これが一番醜さを端的に表せると自負しているからなのだ。どうだこれは君らには出来ないだろうと、オリジナリティを主張するかのように。市場でひときわ目立つのは綺麗なものじゃなくて汚くて反吐が出るようなものだ。そう信じてやまない、信じなければ救われない。飛び込んだ先にあったのは血溜まりか天国のお遊戯会か、どっちにしても黄泉の世界でしかないな。ばいばいまた会いましょうね、いつか夢見た汚濁の底まで。