社交

ざんねんな人間図鑑

観察

車から見かける電車ってなんだか珍しくてラッキーな事象であるような気がするんだけど、電車からはいくつもいくつも車が見えるから、自分が車に乗っている時のことなど忘れてしまう。こちらが一方的にラッキーだと思っているだけで、向こうからはいくつも見えるうちのひとつだと言うこと。普遍的な片想いの形状だろうか、とかなんとか思いながら窓の外を眺めている。子どもが祖母とおぼしき人に抱えられて手を振っている。電車が一時間に一本しか来ないど田舎では、電車というのは結構珍しいような気がするんです。ところで汽笛の音って、もう少し小さくできないもんかしら。何を伝えるためのものなのか。不学なもんでわかりません。
そういえば教室に切れかけの蛍光灯があって、ぱちぱちと点いては消えてを繰り返していたんだけど、そのリズムが規則的なのかはたまた不規則なのか、蛍光灯を取り替えることは延命処置なのか世代交代なのか、完全に止まるのはいつだろうか、とか考えていた。もちろん授業中に。そうしていたら先生が蛍光灯に気付いて、取り替えるように頼みなさいと言ってその部分の電気を消した。動くものが目で追えなくなってわたしは退屈した。でもそれってエゴだな、とか思った。
人との距離感が病的に理解できないわたしは何かしらのとっかかりを掴むべく、ひとに今日の弁当の中身とか聞いたりするんですけど、こいつ毎日弁当の話してるなと思われる気がして怖いです。窓から見えるのは一辺倒に田んぼばかりで人もほとんどいなくて、今のうちだけはこの醜態は晒されずに生きていられるのだと思ったりする。これからずっとうまいこと生きられないのだろうか。どうせなら顔だってかっこよくて綺麗な顔になりたいよね。選べないのは親と見た目。自分で変えられる部分を精算して、そこから可能な限り理想に近づけなければならない。成功者とされる人たちのお手本のように、まともに人間をやりながら生きるのは難しい。そんなこんな考えているといつもの無人駅に着くのであわただしく電車を降りる。二両編成の寂れた列車が、誰もいない乗客を何となく待っているように見えました。